零距離射撃 米軍の戦車隊接近 最後の抵抗試みる砲兵

二十年六月二十二日午後三時半ころ、島尻郡真壁部落北方三百㍍の地点で、山三四八○部隊岩下隊岡安分隊(固有名称・野砲兵第四十二連隊)の十五㌢リユウ弾砲が一門、砲口を北にむけ、南下する米軍に最後の抵抗をつづけていた。

この岡安健三郎伍長(妹背牛町出身)の分隊も、他の分隊とともに、四月下旬首里戦線に参加、その後、戦況の悪化につれて八重瀬岳山頂に後退、さらに六月上旬真壁のここに後退したものであった。

砲は松の木で偽装され、押山小隊長、岡安分隊長、岡本伍長、鶴兵長、中西兵長、本間哲衛伍長(岩内町)ら十四人が砲側についていた。沖縄戦最後の大砲であり、十四人もまた、戦死、行くえ不明のあとに残った者たちだった。残弾は三十数発。各兵のもっているのは二袋のカンパン。飲み水はなく戦闘に対する指揮系統もなく、連絡もなくなっていた。

大砲と生死をともにする砲兵たちは、口にこそださなかったが、もう死期の近いのを知ってだまりこみ、無表情だった。

本間伍長は、経理下士官として沖縄戦開戦以来、糧秣(りようまつ)を担当していた。だが、軍隊組織がこわれたいま、せめて、最後のタマはこびでもしようと、出身中隊へもどってきたが、一発四十㌔のタマを衰弱しきったからだで、運ぶことは大変だった。

敵戦車群が、陣地の東方から進んでくる―とのしらせがはいった。見ると、先頭の戦車は、もう、百五十㍍のところに接近し、とまった戦車のなかから米兵が顔をだして、あたりを見回している。

砲兵は、北方に向いていた大砲を、いそいで東方へ九十度まわさねばならなかった。疲れきった砲兵たちにとって、この作業は、何時間もかかったような気がした。

やっと方向をかえ、タマをこめる。全員配置につく。先頭の戦車をねらい、零距離標準でねらいをつけた。二番砲手の“よしッ! ”を合図に、一番砲手が引きづなをひく。大きな爆発音―

〈敵戦車はふき飛ばされただろう〉

後方にふせていた本間伍長は、おそるおそる顔をあげた。敵戦車は健在。

〈オヤ? 〉

大砲の砲身は砲架(砲身の台になっていて、反動をうけとめる機械)からはなれ、真ッすぐ空をむいている。

〈やられた! 〉

砲手たちの姿が砲側にない。吹きとばされたのだ。本間伍長のおどろきにもまして、敵戦車群は、ここに、日本軍の大砲陣地があるとは思っていなかったらしい。あわてたように砲撃開始、グングン接近してきた。

分隊長岡安伍長は、砲兵としてなすべきすべてをし尽くし、祖国と北海道の安泰を祈り、ゆうゆうとピストルで自らの生命を断った。

本間伍長は厳粛な感にうたれた。砲兵の零距離射撃は、最後の射撃である。砲口を飛び出したタマは、砲口から十㍍くらいのところではじけ、弾体がこなごなになって、めざす敵軍に飛んでゆく。敵兵が、すぐそばまで肉薄したときに用いる射撃である。本間伍長は、岡安分隊長に自決にうたれ、せまりくる夕やみのなかに立ちつくして、そのめい福を祈った。

 

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