宣伝ビラ 日本軍へ降伏勧告 牛島中将、一笑に付す

米軍の記録から①

米軍機は三月二十五日から組織的な戦闘が終わるまでに約八百万枚の宣伝ビラをまいた。六月中旬までにまかれたビラの内容は、沖縄の民間人や日本の兵隊に米軍を信じさせることにならいがおかれた。それ以後のビラは、日本が負けていることを民間人や兵隊に知らせるものであった。

六月十日朝、バックナー中将は、牛島中将あてに書状をしたため、前線後方に投下、日本軍の集団降伏をつぎのように勧告した。

『閣下のひきいる軍隊は勇敢にたたかい、善戦しました。日本軍歩兵の戦略は、閣下の敵である米軍から、ひとしく尊敬されるところであります。

閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験をつまれたりっぱな歩兵の将軍であります。したがいまして、本官が察するところ閣下もすでに御存知のことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまやすでに時間の問題であります・・・ 』

もちろん、この降伏勧告に、牛島中将が応ずると考えたものは米軍にはひとりもいなかった。

二日後の十二日、米軍機は、三万枚のビラを今度は日本軍のいる前線にまいた。その内容は牛島中将が降伏勧告を拒絶したこと、そして、それは全軍を破壊へみちびこうとする利己的な考えであり、将兵は牛島中将の考えに同調してはならないことなどを強調したものであった。

六月十四日、米軍は牛島中将に対し、二度目の降伏勧告を行なった。あとで米軍が知ったことだが六月十日の降伏勧告書を牛島中将が実際に受け取ったのは、六月十七日になってからであった。入手が遅れた理由は、日本軍自体が混乱し、連絡や通信網が欠如していたからであった。

牛島、長両将軍は、この降伏勧告を一笑に付し、かかる勧告に応ずることは“サムライ”の面目にかかわることだといった。

六月十七日、米軍(第七師団)は、さらに効果的な降伏勧告を行なうべく全軍に砲撃を一時間中止させ、通訳兵に携帯用ラウドスピーカーを持たせ、日本軍にたいし投降を呼びかけさせた。

日本兵が数人でてきた。米軍のほうに近よってきて、二、三分立ちどまっていたが、急に姿を消した。とたんに米兵ひとりが負傷し、ラウドスピーカーに三つも穴があいた。こういうやりかたはまったくききめがなかった。

米軍は攻撃を続行した。米第七師団では、仲座南東の断がい上にラウドスピーカーをおき、通訳兵がよびかけた結果、海岸の絶壁の自然ゴウから五、六百人の民間人がゾロゾロと出てきた。この投降者のむれのなかに民間人に化けた日本の軍人を七十人以上も発見した。彼等は、米軍の背後の国頭郡へ脱出をはかったものであった。

日本軍は、米第十軍に波打ちぎわまで追いつめられるまでは、集団投降をしなかった。だが、米軍が心理作戦を強化してからは、集団投降がめだってふえてきた。

沖縄戦の最初の七十日間に、米第十軍が捕虜にした日本兵は、一日平均四人弱であったが、六月十二日から十八日にかけては一日五十人平均にふえ、六月十九日、米第六マリンと米第七歩兵連隊が東西両海岸を攻撃すると、三百四十三人の日本兵が自発的投降してきた。

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