バ中将の戦死 進撃状況の視察中 一発の砲弾に倒れる

米軍の記録から②

六月十八日午後、米第十軍司令官シモンボリバー バックナー中将は、島の南西端近くにある米第二マリン師団指揮下の第八マリン連隊の前線観測所(高嶺村真栄里)にやってきた。米第二マリン師団は、四月一日と四月十九日の陽動作戦をしただけで、指揮下の各連隊は上陸せず、ただ、第八マリン連隊だけが、さいごの戦闘に参加するため六月にはいってから沖縄に上陸したのだった。

バ中将は、この第八マリン連隊の進撃状況を視察のためやってきたが、午後一時十五分、日本軍の一発の砲弾が観測所の真上でサク裂、中将は岩石の一片を胸にうけて倒れ、十分後に絶命した。

首里占領後から日本軍を島尻地区に追いつめ沈黙させるまでに米大十軍のこうむった損害は戦死一千五百五十五人、負傷六千六百二人。バ中将戦死のこの日、米第二十二マリン連隊長ハロルドC ロバート大佐も戦死した。

翌十九日、牛島司令官は大本営ならびに陸軍大臣、第十方面南西諸島各部隊に別れの電文を発信したが、その文には、『上は老人から下は紅顔の少年にいたるまで、住民は軍に協力した・・・』と書かれてあった。

この日、米第九十六師団の副師団長クロウデュス・M・イーズリー准将が戦死した。イ准将は、米全軍将兵から前線の勇士として尊敬されていた人で、日本軍の機関銃陣地をめざして進撃中、前頭部に機関銃弾二発をうけて即死した。

バ中将戦死のあと、米第十陸軍の指揮は沖縄作戦の上級司令官ロイ・Sガイガー海兵隊少尉がとり、六月二十三日は、ジョセフ・W スチルウエル将軍にかわった。

米軍にくらべ、日本軍の損害率はしだいに高くなっていった。日本軍の防衛戦は包囲された真栄平部落を残し、六月二十一日の晩までにほとんどくずれさった。この一万五千から一万八千の日本兵は、沖縄南部海岸の巨大な岸壁のさけめやドウクツ、こわれた建て物、木の下、ミゾ、岩かげにかくれていた。真栄平部落付近で米軍に包囲された日本兵は、機関銃や臼(きゅう)砲をうちまくって死に物ぐるいの戦闘を展開、首里戦線の時よりも、はるかに多くの損害をだしていた。

米軍は日本軍の組織がくずれ去ったとはいえ、攻撃の手をゆるめることなく、いままで同様、激しい攻撃をつづけた。

日本軍の捕虜の話によると、日本軍の将校たちは、兵に対し米軍の捕虜になったら死はまぬがれぬ、沖縄守備の日本軍を救援のため友軍が逆上陸してくる空挺隊が、いまにやってくる。六月の後半には総攻撃を行なう―といいづづけているとのことだ。

この話を語り合った日本軍の捕虜たちの話によると、日本軍はまず、台湾から第九師団がくるし、五百機の飛行機も帝国海軍の残った艦隊とともに総攻撃に参加する―というのだった。ただ、この大作戦の一つのただし書きは、もし沖縄の日本陸軍が六月二十日までに壊滅状態になったら、これらの逆上陸は中止になり、残存部隊だけで総攻撃をするというのだった。

米軍側としては、日本軍は戦闘の終わりには、きっと“バンザイ攻撃”をしかけてくるに違いない―と警戒していた。

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