牛島、長将軍の自決 東天を遥拝し切腹 米軍手りゅう弾の中で

米軍の記録から③

六月二十日午後、米第三十二歩兵連隊は、麻文仁の第八十九高地(麻文仁岳)の東端を占領、九百七十七人の日本兵を捕虜にした。これは、太平洋戦争で、、いまだかって例をみない数であった。日本軍の損害は、六月のはじめまでは、一日平均千人であったが、六月十九日には、二千人にとびあがり、二十日には三千人、二十一日には四千人に達した。

この日本軍のおそるべき戦死者の数は、攻めよせる米軍が多すぎるためだった。追いつめられ、傷ついた兵隊の多くは、持っている手りゆう弾を腹にあて、みずからこっぱみじんにして死んだ。―刀を持たない人間の、いわばハラキリの一種とでもいおうか。

あちこちに腹や右腕を吹き飛ばされた死体がころがっていた。米第一八四歩兵連隊の兵は、火炎放射器つき戦車で日本軍陣地を撃滅にむかっているとき、こういう自決の音を少なくとも十八回は聞いた―と語っていた。

ひとりの日本兵は、米軍野砲の監視所に近づき、どこからも見通せる広っぱに飛びおりるや、よくわかる英語で

『見よ、俺はいま、みずからの頭をこの手りゆう弾で吹き飛ばしてやるんだ』

と大声をはりあげ、そのとおり実行した。

××  ××

麻文仁の第八十九高地内の地下ゴウには、牛島中将はじめ幕僚たちがいた。この地下ゴウへの入り口の一つは、高さ約五百㍍ほどの頂上の中央にあった。別の口は、海に面した高さ九十㍍ほどの断ガイにあいていた。

第八十九高地における日本軍の抵抗は、ひときわ激しく、米前線部隊の先頭がこの入り口にとどいたのは六月二十一日正午ごろであった。日本軍捕虜のなかから一将校が自発的にでてきて、もう一度、牛島中将に降伏を勧告したい―と申し出て、米兵とともに近づいて行った。

だが、この一行が入り口についたとき、突然、ゴウ内で爆発がおこり、入り口は内部からこわされた。この頂上の日本軍を全滅させるため、その夜は、米軍は火炎放射器で約五千ガロンのガソリンを使いはたした。

ゴウ内の牛島中将は六月二十一日の晩、大本営にさいごの電報をうち、長中将は全軍死力をつくして戦うよう、さいごの檄文の手紙をしたためて副官に託した。

六月二十二日零時すこしまえ、炊事兵が特別料理をこしらえ、両将軍は幕僚たちとスコッチ・ウイスキーで別れのさかずきをくみかわした。

午前四時、切腹の時刻―牛島司令官は完全軍装に身を固め、長参謀長は白無垢姿で現われた。この居室ゴウをでるとき、長参謀長が、牛島司令官に

『軍司令官殿、道がくらうございますから、私、長が案内つかまりましょう』

これに対し、牛島中将は

『どうぞ、そうしてください。暑くなりましたから、私はウチワを持ってまいりましよう』

と、沖縄製クバウチワを静かにあおぎながらゴウをでた。午前四時十分、ゴウの入り口から四㍍はなれたところに白布をかけた座布団が用意されてあった。切腹の儀式により座について東天を遥拝、米軍の投げた手りゆう弾数発がサク裂するなかで自決が行なわれた。

 

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