山三四八三部隊 生存わずか40人 筆舌に尽くせぬ悲惨さ

前線では、石兵団と山兵団の三四七四部隊が激戦中―とのことだが、米軍の、このおびただしい物量と強力な新兵器にたいし、日本軍は一発ずつしか発砲できない歩兵銃で、一機の友軍機の援護もなく戦っている。友軍機は、いつきてくれるのだろう―。これは、戦う者の心からの叫びであった…山三四八三部隊(輜重)の杢大弘伍長はその「手記」で書いている。

この輜重部隊の編成と、満州から沖縄への移動状況を、細田久雄曹長(函館市東雲町一、函館市消防本部消防指令長)の手記から見てみよう。

▽部隊長 中村卯之助大佐▽第一大隊長 大橋正衛少佐(駄(だ)馬大隊)▽第一中隊長(不明)▽第二中隊長 米屋中尉(札幌)▽第三中隊長 坂本中尉(森町)第二大隊 服藤照近少佐(自動車大隊)▽第四中隊長 鈴木茂中尉▽第五中隊 小松中尉▽第六中隊 高橋中尉。

約一千五百人の部隊全員中、生存の判明しているのは、沖縄現地徴集兵をふくみ約四十人。このうち、本道居住者は=敬称略=杢大弘(帯広市東三南五、理容業)橘政敏(帯広市西二南二、木材業)川上義隆(深川市仲町九、ダンスホール経営)柚原英雄(札幌市藻岩下二六五、佐々木正一方)前田弘(函館市音羽町、家具商)森元正雄(函館市松風町、古物商)鹿討太郎(士別農協)斉藤上等兵(砂川)植田上等兵(新得)細田軍曹(函館)東京に岩田軍曹、若木伍長。以上十二人の消息以外は不明である。

細田手記は「私は、沖縄については、あまり人に語らない。また、肉親にも多く語らない。なぜなら、戦いに敗れたからではない。また、わずかの生存者としての心苦しさからでもない。それは、いかに沖縄の激戦がせい惨であったかを、どのように説明しても、現実を味わった者でなければ理解できないことであるからである」と書いている。

本紙もまた、リバイバルを意図しているのでもなければ、軍隊エレジーを書くのでもない。道民としての貴重な体験、異常な現実を、ありのままに記録にとどめ、父や母に、妻や子に死者にかわって、事実を伝える。心から戦死者のメイ福を祈る―こうした心と心の交流をはかることが目的なのだ。毎日、遺族が戦記係を訪れ、涙を流して帰ってゆく。各地から戦死者の写真が送られてきている。真実を知りたい気持ちは、みんな同じなのだ。

山三四八三部隊は、もとは満州国東安省東安の第二十四師団第二七○部隊で、昭和十九年七月六日動員下令、十三日完結、移動を開始して釜山から下関到着。久留米で約十五日間待機して、門司を出航、八月五日、那覇に上陸、八日に読谷村喜名の農林学校に着いた。陣地構築と弾薬、食糧の輸送業務を担当していたが、十二月十日、島尻郡富盛(ともり)地区に転進、物資輸送のほか、陣地構築と防衛にあたった。

米軍が上陸した四月一日から輸送計画に基づいて東風平(こちんだ)国場(こくば)野戦倉庫の糧秣、与座岳の弾薬を各部隊に配布するため、毎夜出動した。

四月十日、野砲弾薬と野砲の積載に出動。中旬以降は一部の車両で戦傷者輸送に従事した。

五月上旬は、首里前線に弾薬・糧秣の輸送を、一部は戦傷者護送に当たった。駄馬大隊(第一大隊=細田手記によると、生存者は皆無に近い状況という)は新川に位置して、車両運搬の弾薬をひきつぎ、これを前線に搬送した。五月十六日、駄馬大隊は、前線歩兵の戦死者が多いため、特別編成部隊となって、弁ヶ岳に出動、指揮隊長大橋大隊長は五月二十日戦死した。

五月下旬、部隊の戦死者が多く、六月以降島尻に撤退して戦傷者輸送に従事した。

六月十三日、自動車隊(第二大隊・服藤少佐)は、最後の輸送を行ない、十四日、車両を焼き歩兵部隊として戦闘に参加した。

六月十七日、第二大隊の第四中隊(鈴木中尉)は、山三四七八部隊(捜索第二十四連隊)に配属され、その他の五個連隊は師団直轄となって戦闘をつづけた。

以上が、部隊の行動の概略だが「杢大手記」「細田手記」によって、死の沈黙の中に秘められている貴重な現実を解明してゆくことにする。

なお、この部隊の生存者の方は、一人でも多くの遺族に、真実を知らせるために筆をとってほしい。あなた方が、ミソ汁をごちそうになり、黒砂糖やお茶の接待をうけた東風平村字富盛一一七の野原ツネさん(六十))は、夫の栄造さん(四十七歳で戦死)と長男の栄太郎さん(十九歳で戦死)の思い出を胸に、八重瀬岳のふもとで、一人で暮らしている。記者の訪問を喜び、兵隊さんが、兵隊さんが―となつかしがってもてなしてくれた。

 

沖縄戦・きょうの暦

4月29日

日本軍、総攻撃を決意、決行は五月四日と決定。

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