山三四八一部隊 後退につぐ後退 切り込み隊一人も帰らず

工兵(山三四八一部隊)で、現在までに、戦記係に連絡のあったのは日野定男さん(広尾町東通り五丁目)と高野直之さん(三笠市幌内住吉町四三七)の二人だけ。

同部隊の兵員数は、約一千人、防衛召集二百五十人、合計一千二百五十人で編成されていたが生存者は二十数人といわれている。同部隊の行動概況は次のとおりである。

昭和十九年八月五日、那覇に上陸、嘉手納、読谷山村一帯に進駐した。のち石嶺、久得周辺の防衛に従事した。第一中隊は歩兵第二十二連隊(山三四七四部隊)に配属され第二中隊は歩兵第八十九連隊(山三四七六部隊)第三中隊は歩兵第三十二連隊(山三四七五部隊)の配下になった。

十二月六日、武兵団の台湾転進にともない、島尻郡高嶺村字大里に転進して、付近の警備についた。

四月二十七日、児玉連隊長以下、首里市赤田町に転進した。ここで、五月四日の総攻撃を行なったが、戦局は日ましに不利となった。それでも二十五日間首里戦線で戦闘をつづけ、五月二十九日、高嶺村大里まで後退した。

六月十日、米軍が大里まで攻めてきたので、新垣に後退した。六月二十二日、児玉連隊長は各幹部将校を集め、大里、糸満に迫った米軍に山三四八一部隊最後の切り込みを命じた。

部隊の将兵は一体となって捨て身の切り込み戦をやった。ある者は箱爆雷を抱きかかえ、米戦車に体当たりして戦死した。切り込み隊が出発したあと、児玉部隊長は、新垣の連隊本部で戦車攻撃用爆雷を爆発させて自決した。

衛生伍長だった高野さんは、大里の病院ごうで病人や負傷兵の治療に専念していたため、助かった。兵隊は、少し回復すると、つぎつぎに夜間切り込みに出撃してゆき、帰ってこなかった。最後には、高野伍長、安部曹長、小神上等兵ほか一人の四人だけになった。病気中の者がいたので、その回復をまち、七月上旬、他部隊に合流しようと四人で大里のごうを出発した。

東風平まできて、安部曹長にはぐれた。他部隊の兵隊が三人いた。一人が負傷していたので小神上等兵とも五人で共同生活をしながら、負傷兵の治療をした。負傷兵が、よくなったころ他部隊の三人に別れ、小神上等兵と一緒に首里まで北上した。北部山岳地帯には、米軍がいないと判断し、そこへ行くためだった。

しかし、米軍の警戒がきびしく、戦線を突破することができない。しかたなく引き返して、与那嶺の野砲陣地付近にたどりついた。ここで杣友(そまとも)上等兵に会った。北部行きは思いきり、そこにいた下士官兵十一人、現地人十二人と共同生活をはじめた。

食料は米軍のものを盗んで生きつづけていたが、九月二十三日、友軍の投降勧告隊に見つかった。これは捕虜になった友軍で編成されていた。敗残兵一同は相談のうえ投降することを決め、迎えの車に乗った。以下は高野手記による山三四八一部隊の編成表である。

▽連隊長 児玉昶光大佐▽副官 加藤広一中尉▽本部付 堀口博中尉、太田締夫少尉、岡崎文志見習士官、国田幹准尉、土屋信重、田中庄一、加藤告美曹長、仲俣秋夫、梅沢喬太、遠藤清四、鈴木英男軍曹▽主計 前川米生中尉、安部慶次曹長、佐々木忠伍長▽獣医 棚川実中尉、関好次曹長▽軍医 中村正男、久野昌一大尉、三浦正敏少尉、土屋進准尉、佐藤秀夫軍曹、新沼繁、高野直之伍長▽兵器 岡山敏夫准尉、小村幸雄、大槻真三、梶山健二軍曹、斧山国男、真鍋芳三郎伍長。

【第一中隊】▽中隊長江井全中尉▽隊付斉藤道博中尉、大山茂男、清宮新一少尉、斎藤辰伍長准尉、赤尾勝二曹長、石橋兼太郎、香川文夫、辻寧憲、丸山久芳、三浦武夫軍曹、川崎義男、布施清、木村義信、小紙元博、外山与志雄、渡辺正衛、阿部弥太郎伍長。

【第二中隊】▽中隊長中山四加次中尉▽隊付志田義生、杉山兼一、松原近俊、山口夏雄少尉、伊藤博、浜中友一、水口栄司、森五郎、山本義男、吉江吉男、横山清治軍曹、鎌田貞敏伍長。

【第三中隊】▽中隊長江○隆中尉▽隊付前川保晴、安田英二少尉、香川文男、福田重吉、渡辺正雄、白峰忠継軍曹、石山愛次郎、田口久治、乗木幸平、丸山一男、吉川冨男伍長。

【器材小隊】▽小隊長佐々木節夫少尉、佐藤光三、松田与三郎軍曹、中西忠義伍長。

【防衛隊】▽隊長西村正准尉、笠場嘉一軍曹。

(以上四月一日現在)

 

沖縄戦・きょうの暦

4月30日

夜間切り込み隊として、沖縄県立第三中学校生徒の鉄血勤皇隊が、毎夜、活躍していた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です