怒りと涙 あす突撃を敢行 玉砕決意 中隊長の声ひびく

旭川市東旭川町豊田の佐藤留義さんから、球第一五五七六部隊(独立速射砲第二十二大隊)第三中隊(長・田村中尉)の戦闘手記と中隊員の写真が寄せられている。

この大隊の編成は▽大隊長高橋厳大尉▽第一中隊長西本中尉▽第一小隊長古山中尉▽第二小隊長高畑少尉▽第三小隊長高橋准尉▽第二中隊長小笠原中尉▽第一小隊長織田中尉▽第二小隊長武田少尉▽第三小隊長(不明)▽第三中隊長田村中尉▽第一小隊長葛城中尉▽第二小隊長武田中尉▽第三小隊長(不明)

佐藤留義衛生上等兵の手記によれば―

部隊は、十九年九月五日、門司港出航。九月十一日夕刻、那覇港上陸。劇場に一泊後、中頭郡我如古部落に集結、第一中隊は我如古、第二中隊は城間部落、第三中隊は宮城部落に移動し、それぞれ陣地構築をはじめた。ここで十月十日の空襲をうけた。辻勝行衛生伍長(ソロモン島帰り)もいた。

二十年三月二十日、甲号戦備下令。四月一日、米軍上陸。佐藤上等兵所属の田村中隊は、西原村八十五高地に速射砲(口径四十七㍉)の砲列をひき、待機した。米軍上陸地点を守備する賀谷支隊からは、五分ごとに戦況が伝えられていた。

四月四日未明、西原村八十五高地(中隊本部所在地)の西方五百㍍の大謝名陣地(だいしゃな)の王菊軍曹(砂川)から、敵戦車が現れた―と伝令が走ってきた。同陣地からの砲声がひびいていた。午後一時、ふたたび、大謝名陣地から報告―M4戦車十台を破壊したが、速射砲に敵弾を受け使用不能になった。砲を爆破し、重傷の松井上等兵を担送しようとした時、集中砲撃で坂田上等兵(比布)も、松井上等兵と一緒に戦死した―。

M4戦車は、大山部落を出発し、前方七百㍍に接近した。第一小隊(長・葛城中尉)の陣地から、射撃開始の報告。同小隊が五台目の米戦車を破壊したとき、電話がかかってきた。―負傷兵が三人、衛生兵の派遣たのむ―田村中隊長は、高須賀衛生兵と私(佐藤)のほか担架兵四人に患者救出を命じた。

弾丸の雨のなかを、六人はバラバラにわかれ、葛城陣地へ走った。陣地は、火と煙につつまれている。生存者がいるのだろうか―私(佐藤)は不安になった。陣地の入り口に、担架があり、戦死体が六体ころがっている。左手の海岸線では、米戦車が、真っ赤になって燃えていた。敵弾が激しく、地にふせたまま身動きできない。私(佐藤)は横たわったまま、手リュウ弾を握りしめた。自爆しよう―発火の機会をうかがっていた。そのうちに、急に砲撃がやんだ。

ほんのみじかい時間―私(佐藤)は、二十㍍ほど走って山をのぼり、谷底へころげこんだ。ほっとして、あたりを見回すと葛城中尉はじめ十二人の負傷兵がいる。

片手のない者、足をやられた者など、うなりながらころがっているなかに高須賀衛生兵もいた。二人で負傷兵の手当をし、夕刻、中隊陣地に帰りついた。

四月五日。米戦車隊は、きのうの大謝名陣地での損害にこりたらしく、大山部落から、約二十台の戦車が出たりはいったりしながら、こちら(第三中隊陣地=西原村八十五高地)の様子をうかがっている。

王菊軍曹は、速射砲のそばで米戦車の行動を見守っていた。戦車を六百㍍くらいまで近づかせ、確実にねらい撃ちにする考えだった。ところが、敵戦車のほうが、さきに、こちらを発見してしまった。陣地に戦車砲弾が命中した。速射砲の砲身をえぐり、王菊軍曹の下腹部に当たった。軍曹は即死した。分隊員は、怒りと涙にむせながら、砲のそばの地面を掘りつづけた。軍曹の死体を埋めた。田村中隊長は隊員に言明した。

「中隊は、あすの朝、敵戦車に突撃を敢行しこの陣地を死守する」玉砕を決意した中隊長の声が、不屈の闘志をこめてひびく。

兵隊はそれぞれ、いっさいの私物品をごうのなかに積みあげた。山になったなつかしい品々のうえからガソリンをかけ、火をつけた。軍服に記入した各自の名前ははぎ取った。新しいフンドシをしめる。勲章、記章をもつ者はそれぞれ胸に飾った。寸暇をさいては、雨つゆでたくわえた水で、口をすすぎ、ヒゲをそった。

戦友同士は、手を握りあって別れのことばをのべあい、負傷兵には、手リュウ弾を与えて、自決に手ぬかりのないよう教えさとした。全員、最後の突撃の準備を終えた。すでに陣地・八十五高地は、たえまのない艦砲、爆撃、機銃掃射、砲撃を浴び、樹木は一本もなくなり、弾こんだらけの地表がむき出しになっていた。

 

沖縄戦・きょうの暦

5月16日

 

首里松川の戦闘つづく。

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