笑う女 子供の死で狂う 何が起きても感情ない

四月五日午後八時―死の準備をいそぐ第三中隊に、大隊本部医務室から伝令がきた。戦傷者続出のため、衛生兵が不足になり、佐藤衛生兵は、大隊本部勤務を命ぜられた―

私(佐藤)は、うれしかった。あすの朝は、みんなと戦死する決心でいたのに、後方にさがれる―夢のような気がした。と同時に、戦友たちにわるいなと思った。

このまま、私(佐藤)だけが後退したのなら、心のしこりとなっただろう。間もなく、大隊本部命令で、第三中隊は全員、大隊本部の位置まで後退するよう指示してきた。

昼間の部隊移動は不可能。夜間といえど、安全なものではなかったが、敵弾をさけながら後退した。

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以下、佐藤手記は、四月十九日まで記入がないので、厚生省援護課調査による、この部隊の行動を書く。

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昭和十九年十月から十一月にかけ、現地徴集の初年兵約五十人が入隊している。

二十年四月四日、第二中隊(長・小笠原中尉)第一小隊(長・織田中尉)宜野湾陣地で戦闘。

四月六日、第二中隊は主力陣地(我如古)に合体。七日、第二小隊(武田少尉)の第二分隊は長田陣地で戦闘後、我如古陣地に合体。

四月十日、我如古陣地の第二中隊は、陣地を米軍に馬のり攻撃されて応戦。

四月十五日、第二中隊の我如古陣地は、艦砲と空爆をうけて崩壊。森川陣地に移る。

四月十七日、第二中隊は、森川陣地で戦闘後、西原の大隊本部陣地に合体。

四月十八日、第一中隊(長・西本中尉)第二中隊、第三中隊(長・田村中尉)協力のもとに西原陣地で戦闘。

四月十九日の佐藤手記―

武田少尉(第二中隊第二小隊長)が、軍刀をふりかざし、大隊医務室に踊り込んできた。敵戦車が、武田少尉、松浦兵長らの陣地を踏み越えて進む後方から、松浦兵長が速射砲弾の一発で炎上させた―という。この戦闘で、負傷者十数人、戦死者対馬上等兵、西村一等兵、畠山一等兵ほか一人を出す。

四月二十一日、幸地に転進。

四月二十二日の佐藤手記

いよいよ、わが大隊本部も中隊も、前田部落へ転進することに決し、夜中二時ごろ、陣地をあとにした。途中、前田部落前方の山の下で、大隊長高橋大尉、堀軍医を待ちあわせのため、一時休止していたところ、戦車迫撃砲の猛撃をうけた。

私(佐藤)は右のてのひらに負傷、前田部落のごうへはいり桑原衛生軍曹からガスエソ予防の注射をうけた。この日は、私(佐藤)の父の命日であった。

いましがた、猛烈な砲撃をうけた洞窟の奧をのぞいた。子供を抱きかかえた女がいる。「早く南へ逃げろ」と声をかけたが、ぼんやりしている。女のそばへ寄って、よくわかるように話をした。地獄のような洞窟のなかでわが子を守る必死の母の姿に胸をつかれていた。ところが女は、異様な声で笑い出した。いきなり、子供を投げ出し、砲煙のなかに飛び出して行った。

私(佐藤)は、子供を抱きあげようとして身をかがめた。プーンと死臭をつく、両の目は、穴になっており、ほおは、愛ぶのためだろう、白骨が出ていた。婦女子のまじる戦争とは、こんないやなものなのか―全身をうちのめされたような疲労感を覚え、私(佐藤)はしばらくその場に立ちつくしていた。

四月二十四日、幸地陣地撤収、前田に転進。

四月二十七日、前田陣地撤収。本部は首里、第一中隊は平良、第二中隊は城間、第三中隊は石嶺にそれぞれ移動。

五月十三日、第一中隊は平良陣地を撤収。首里大隊本部陣地付近に移る。

五月二十七日、首里陣地撤収。宜寿次東北方約一千㍍付近に転進。

このころの佐藤手記=朝三時ごろから地面も見えるようになる。大きな爆弾の穴のなかには雨水がたまり、死体が浮いている。

野戦病院の女学生軍が三百人ほども、泣きながら歌をうたい集団自決をした―という話を聞いた。ボロボロの服をきた兵隊たちが、あちらに一団、こちらにひとかたまり、何を話しているのか銃も持っていない。指揮者を失った敗残兵たち。だれが死んで行こうと、だれが、断末魔の叫びをあげようと、もう、なんの感情も起こらなくなっていた。

沖縄戦・きょうの暦

5月17日

 

米軍、首里の石嶺、浦添村阿波茶高地占領

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