白兵戦 さながら鬼のよう 米兵に武者ぶりつく

 木口中隊は、前方からは迫撃砲弾、後方から艦砲弾をあび、地獄さながら。あたりには戦死体が散乱し、生きている者も、鬼のような顔で戦闘をつづけている。水さかずきのように、みんなでさいごの水をのみ、それぞれは位置についた。

 第一小隊第二分隊(長・高橋誠弥伍長=函館)の前方六十㍍付近に、米兵が二十人ほどあらわれた。木口中隊に気づいていない。ゆっくり背のうをおろす彼等をねらい、一せい射撃をあびせた。八人が倒れ、逃げて行く。

 やがて、援軍とともに攻撃してきた米軍は、木口中隊のなかへ乱入、たがいに、銃をふりまわし、手りゆう弾をなげ、つかみかかり、血みどりの白兵戦があちこちではじまった。加藤軍治一等兵(北海道)星次郎上等兵(北見)は上半身に重傷を負っていながら、大きな米兵に、むしゃぶりつき、狂ったようにあばれまわる。高橋分隊長は重傷。

 重傷者は手当てもせずにタコツボのなかへ入れる。銃も手りゆう弾も、帯剣もとりあげる。自決をふせぐためだ。

 『殺してくれッ・・・殺せ!』

 泣きながら重傷者が絶叫しつづける。戦友の迷惑を考え、そして、傷の痛みにたえかねて。この日、絶命するまで戦いつづけた星上等兵、加藤一等兵はじめ、約四十人が戦死。米軍も大きな損害をうけて後退していった。

 木口中隊では、暗くなるのを待ち、負傷者を中隊本部までさげることになった。前線から本部まで百五十㍍。くらくなっても、迫撃砲弾はたえまなくサク裂する。そのなかを、負傷者を戸板にのせ、命がけで後送する。わが身があぶなくなると、負傷兵を、ほうり出してかくれる。

 (砲弾のなかになげ出された負傷者は、さぞ、俺たちをうらんでいるだろうなあ、死んだかもしれない、ゆるしてくれ・・・) 

 長浜上等兵は、心のなかで手をあわせ、負傷兵にわびた。どんなに危険でも、息のある者は全部、本部へ後送しなければならぬ。運搬作業は砲弾のなかで続行された。

 負傷者の後送がひととおりすんでから、ふたたび、危険をおかし、遺体収容が始められた。さきに戦死した川島中隊の将兵の遺体のそばに、木口中隊の戦死体が、次第に数をましていった。ヒゲづらの道産子が戦死体を前に、肩をふるわせ泣きむせんでいる。

 大前貫一兵長(余市)は、長浜上等兵の水筒から、うまそうに水を飲んだ。表情が真剣になる。前身の力をふりしぼって叫んだ。

 『天皇陛下、万歳ッ』

 一度二度三度・・・力は、次第に弱まり、静かに目をとじた。二十九日、木口中隊の本道出身戦死者を長浜上等兵は、つぎのとおり記録している。

 山本キタミ兵長(函館)永長留吉兵長(小樽)古世上等兵(江差)畑中庄太郎一等兵(北海道)中岡三郎上等兵(小樽塩谷)藤原悦治一等兵(長万部)本間弘上等兵(小樽高島)村田多々雄上等兵(松前)辻本武見一等兵(小樽)福島真雄一等兵(函館)若林一等兵(北海道)和久井若一等兵(北海道)

戦記係から 札幌郡広島村・田中松太郎さんは、函館市の松岡一夫、工藤繁、岩崎金平、信田松夫、小樽の桜井与治郎以上五氏の連絡を待っております。なお歩兵第二十二連隊(山三四七四)は、昭和十五年徴集兵以下は、おもに函館連隊区出身で道内の生存者は五十人ぐらい。この部隊の名簿、編成を正確なものにしたいので、連絡してほしいーと、いっている。

沖縄戦きょうの暦 6月20日

 バックナー中将の後任としてスチルウェル司令官任命。

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