ノミの群れ 壁面を赤く染める ごう内に音をたてて

 友軍砲兵の撃った砲弾が、首里北方に弾着するのが、よく見える。鈴木曹長は、津嘉山のふもとにアワモリ製造工場を見つけ、水筒に泡盛をつめた。

 橋はおち、三差路や十字路には、敵砲弾がたえまなく落下して、通過がむずかしい。山ぞいの道路の上空では、りゆう散弾が、赤黒い炎を発し、百雷が一時に落ちるような音をたててサク裂。ビシ、ビシ、ビシ・・・と破片が地面につきささる。

 先発した鈴木曹長は、後続の中隊と一緒になり、伏せては走り、走っては伏せた。向井正男上等兵が砲弾の破片で戦死。中隊二人目の戦死者だ。中山一等兵の持っていたカンナで丸太をけずり、小高い丘のきわに埋葬、墓標をたてた。

 第一線に近づくにつれ、続々と負傷兵が後退してくる。石兵団の将兵だ。泥と血にまみれ、棒にすがりビッコをひく者、タンカでうなりながら運ばれてくる者―声をかけあうこともなく、すれちがう。

 〈自分たちも、やがてこうなるのか・・・〉

 鈴木曹長は、重苦しい気持ちで前進した。

 運玉森に近づく。母親の死体にとりすがって泣く女の子をはじめ、民間人が、あちこちで死んでいる。道路は、さんざん、砲弾にえぐられて歩けない。その土も、黒く火薬ですすけている。あちこちに、タイヤ車輪の新式速射砲や自動車などが破壊され、土になかばうもれて放置されている。

 〈これが戦場だ・・・〉

 八重瀬岳付近の陣地を出発するとき、部落の男女に急造爆雷をになわせ、同行してきたが、彼等を日中、ごうにかくまう。ごう内はノミの巣だった。真ッ赤になって壁面をはい伝い、その音がきこえる。避難民のふとい衣類についてきたものがふえたのだろう。見ていると、気持ちが悪くなるほどだ。夕方、部落民は、別れをおしんで村へ帰って行った。

 前回につづく名簿(4)

 柴田栄蔵一(遠軽町一線三十九号、父、佐吉、五月四日小波津で戦死)平原市太郎一(根室市花咲町桂木八五の二九九、父、惣太郎、五月十二日運玉森で戦死)久田二郎一(京都市今出川通小川東入口、父、清三郎、五月十六日東風平患者収容所で破傷風のため戦死)平山次郎一(斜里郡小清水村字下止別十七線北二号、父、仁作、五月四日小波津で戦死)樋口忠男一(三重県河芸郡一身田町大学一身田二七七二、父、清太郎、五月二日艦砲弾で戦死)広田忠兵(池田町字利別一二○、父、安二郎、六月二十日新垣で戦死)森下利男上(大樹村字雁舟五線、父、竹松、五月十一日運玉森で戦死)清野芳光上(浜中村大字琵琶瀬村一、父、定吉、生死未確認)芹沢直志兵(大樹村大字当縁村当縁七線、父、武士、六月二十日与座岳で戦死)鈴木繁雄曹(富良野町字東山あかしや区、生存)鈴木清見伍(網走市浦士別一七四、生存)菅又信伍(恵庭村字漁村四五、妻、キヨ、生死未確認)砂田幸太郎一(苫小牧市王子区、生存)菅原悟軍(上川郡清水町字熊牛、父、義亀、生死未確認)鈴木盛光一(美深町字熊牛、父、友記、生死未確認)有馬繁大尉(鹿児島市下襲屋町一○三、生死未確認)新田武見士(富山市千石町一三九、父、与一、生死未確認)高畑友一上(岩内郡小沢村国富炭鉱社宅、妻、芳子、五月四日戦傷、六月二十一日摩文仁海岸で戦死)山本稔上(出陳地不明、四月三十日小波津で迫撃砲弾のため戦死、遺族不明)佐々木末吉上(出身地不明、五月三日小波津監視所で敵偵察中、迫撃砲弾で戦死、遺族不明)

 戦記係から 森町新川町二○六の早川弘さん(二十年五月二十日、西原村で戦死した山三四七四部隊の早川俊雄衛生伍長の弟)から三十数枚の写真が送られてきたが、所属部隊名も氏名も不明です。七四部隊の生還者で判別できる方は、ご来社ください

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です