運玉森 一発も撃てず 幾十倍ものお返し

 中隊は行動を開始し、運玉森の戦場に出た。兵隊は、さっそくタコツボ陣地を掘る。山田中隊長と鈴木曹長は兵一人をつれ山頂に登って敵状を偵察した。ここを守備していた石兵団の部隊がすでに全滅しまったのでなにもわからない。(負け戦はどこまでいっても負け戦か)曹長は戦闘資料を得られぬことがうらめしかった。

 昼間は全然、行動ができない。夜間といえども、照明弾のケイ光灯のような光りで、一千㍍くらいさきまで見える。照明弾には落下さんがついていて、燃えながらフワフワおりてくると、つづいてすぐ次のがあがる。第一線を表示する照明弾は、赤い色を発して燃える。また、黄燐弾は、花火のように爆発するので美しい。

 一日一日と戦闘が激しくなってきた。日本軍が一発撃つと、十倍も五十倍もおかえしがくる。石沢第二小隊長が戦死したのをはじめ、各小隊、分隊からもつぎつぎと戦死者が出る。米陸軍は海空あげての立体戦術。日本軍は制空、制海権なく、陸上軍の装備は貧弱、気力だけで戦いつづけた。

 今川米五郎上等兵(中川村)が負傷。鈴木曹長は今川を後送しようと、兵隊をさがしに出たすきに、彼は自由のきく左手を使い、手りゆう弾で自殺した。曹長は、おのれのうかつさをくいた。もとへもどらぬ現実に腹がたった。重機関銃で一連(三十発)のタマを撃ち終わるやいなや敵はその十倍くらいも銃砲弾を撃ってくる。射手はつぎつぎ倒れた。母の名を呼び、恋人の名を呼んで・・・。

 『一人だけ、天皇陛下万歳と叫ぶ幹部候補生がいたが、残念ながらその名前を忘れた』と鈴木曹長は手記にかいている。=以上、山三四七六部隊丸地大隊山田中隊鈴木繁雄曹長の手記による=

前回に続く名簿(5)

 能祖武一上(足寄村誉地番外地、父、三男、五月三日負傷、六月十二日戦死)高森由光上(出身地、遺族不明、五月四日翁長部落で迫撃砲弾で戦死)高山吉蔵幹部候補生上等兵(上川郡東川村東四線北八号、父、久作、五月二日、小波津で迫撃砲弾で戦死)秋山常博一(空知郡鹿越石山、父、常雄、六月一日東風平部落で迫撃砲弾で戦死)滝口重四郎一(出身地、遺族不明、五月四日翁長付近で迫撃砲弾で戦死)川上政雄一(紋別郡滝ノ上村ナシライツプ原野北一線、生存)鹿毛正一上(根室市和田村大字和田村三八六、父、勇次郎、六月十二日高良北方台上で戦車攻撃で戦死)加藤忠信上(青森県北津軽郡武田村豊岡、父、忠太郎、五月四日翁長北方高地で迫撃砲弾で戦死)川村正上(三重県河芸郡合川村大字徳居三九○、母、アサエ、五月四日小波津で戦死)唐津武一(門別村曽富一六三、父、富三郎、五月四日小波津で戦死)垣下繁蔵一(遠軽町向野上西二線二四三、母、カチヨ、生還後二十一年一月二十五日死亡ではないかと思う。ご存知の方は、戦記係あて連絡ください)管野幸藏一(音更村字中士幌五線二一、父、清吉、九月二十六日負傷、十月九日戦死)川崎善次郎上(紋別郡滝ノ上村字滝ノ上原野四線、生死未確認)芳門重四郎軍(岩手県下関郡川井村大字川内丸、兄、三太郎、生死未確認)依本秀夫上(上川郡下川村上名原野二六線、養父、久左衛門、生死未確認)吉田金広上(福島県田村郡路村大字古道北一線、父、平吉、生死未確認)吉川千尋一(新潟県川羽郡高柳村字岡田六六一、妻、春枝、六月十二日八重瀬岳北方で爆雷攻撃で戦死)吉本肇上(斜里郡上斜里村字斜里、父、伊三郎、五月四日翁長北方台上で迫撃砲弾で戦死)竹内文蔵伍(常呂郡置戸村字仁居部区南四の五三一、父、沼三郎、五月四日小波津で迫撃砲弾で戦死)

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