霊の帰郷 突然、診断室で爆発音 身の変事の知らせか

 あすは慰霊祭だ。稚内市沼川の柳沼光治さんから三百円同封の手紙がきた。 

 『毎日、新聞を見て泣いています。沖縄戦没者の法要を営んでくださるよし、厚く厚くお礼を申しあげます。ご焼香いたしたいのはやまやまですが、病気のため残念です。心ばかりの焼香代を同封いたしましたので、なにとぞよろしくお願いいたします』

 柳沼さんのどういう関係のかたが沖縄で戦死されたのか、名前も、部隊名も、戦死場所も月日もわからない。菖蒲さんも、次のような体験をしている。

 十八年前、黒松内駅で下車、遺族宅で世話をうけていた。駅前に病院(名前を記憶していない)があり、そこのむすこさんも沖縄で戦死したので、ぜひ、おいで願いたいといわれて菖蒲さんが訪問した。

 話を聞くと、山三四七四部隊第三大隊の軍医将校ということがわかった。が、菖蒲さんの知らない人であった。

父親は

『戦死公報では、五月十日ごろ戦死となっていますが、私どもでは、五月四日を戦死の日としております。

その理由を次のように話してくれた。

二十年五月四日の朝八時ごろ家族が居間に集まり、朝食をとっていた。突然、診察室で大きな爆発音がした。行ってみたところ、医療器具ダナの上のびんが床に落ち、こなごなになってこわれていた。

花びんには、妹さんがさくらの花を生けてあったといい、診断室から居間までは十㍍ぐらいはなれていた。どうして、落ちるはずのない花びんが落ちたのか、また、花びんが落ちたぐらいで、あんな大きな音をたてるのもおかしい―きっと、沖縄で戦っているむすこが、身の変事を知らせたものに違いない―ということになった。

このことを、さくらを生けた妹さんが気にして、くわしく日記につけてあった。

菖蒲さんは、五月三日の夜から四日にかけては、日本軍が総攻撃を行い、敵陣に強烈な進攻を展開したが、米軍の猛攻撃をうけ、全滅に近いうめきにあった日―として、この日を記憶していた。それが、お医者さん一家では、花びんが落ち、むすこさんの戦死を一感した日と一致していた。菖蒲さんは『おたくのむすこさんの戦死された日は、私も五月四日ではないかと思います』といって別れを告げた。

 ××  ××

 菖蒲さんが遺族宅をめぐり歩いたのは、戦死を確認している三十数人についてだったが、列車混雑の当時、ふしぎにキップが手にはいり、捜す家もすぐ見つかって、気味がわるいようだった―という。

 遺族宅では、行くさきざきでかげぜんのちゃわんが、さげるときわれていた―とか、仏壇のかねが、ひとりでに鳴った―などという話を聞いた。こんなことは、普通には、ありえないことだ。五感以外の第六の知覚で相手の思っていることを知ること・精神感応術をテレパシーといっているが、菖蒲さんも

 『沖縄で戦っていた兵隊が、息をひきとるとき、あるいは、激しい砲弾をあびているとき、絶対、帰ることのできない故郷にむかって“かあさーん・・・”と叫んだその声が、魂となってふるさとへ帰っていたのではないでしょうか?』 

 と書いている。あすの慰霊祭に、心からの祈りをささげよう。

戦記係から 八月十五日午後一時から北海道自治会館(札幌市北四西六)で開催の沖縄戦没将兵慰霊祭にご参列ねがいます。

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