脱出は不可能―藤沢軍曹は判断した。だが、敵陣となったところの地下に、とじこもっていることも不安がつのるばかり。翌六月七日、五味伍長と連れだって、敵弾のなかにしのび出た。ふたりは、照明弾と猛射に、水田のなかをはって逃げた。夢中だった。気がついたとき、五味伍長の姿がなかった。
〈戦死したかな?・・・それとも、うまく逃げてくれたか?〉
安否を気づかう思いが、一瞬、脳裏をかすめる。捜したい。だが、その衝動は敵弾の猛烈さに、さえぎられ、行動にうつれない。
〈このタマのなかだ。きっと戦死だろう・・・〉
そう思うと、急に心細くなった。原隊を追うことはあきらめた。まえにいたドウクツへ、タマのなかをはって戻った。
一号病室入り口につく。なかは、まっくらだ。マッチは、水田をはったときにぬらしてしまった。ムッとする死臭、ザワザワと無気味なウジの音のなかを手さぐりで進む。いままでいた三号病室がなつかしい。すると、五味伍長が恋しくなってきた。
『五味君・・・五味君・・・』
三号病室へ進みながらよぶ。その声がドウクツ内にこだまする。自分の声ながらおそろしさが耳に迫ってくる。
〈五味はいない。この広いドウクツは死人ばかりだ。大きな墓場なんだ。生きているのは、自分ひとり・・・〉
胸をしめつけられるような孤独感。突然、やみのなかから―『だれだっ!』
異様な大声がこだました。おそろしさに総毛だち、全身が細る思い。
〈みんな死んだと思っていたが、まだ、生きていた者がいたのか・・・〉『あ、友軍か・・・』
軍曹は、声のしたほうに歩いていった。
『そうです。だれですか?』
やみのなかからの問い。
〈ここに、処置しなかった傷者が生き残っている〉『俺だ、藤沢軍曹だ。わからないか?』
『わかりません。だれでもいいです、私にカンパンをください』
〈かわいそうに腹をしかせて・・・〉
『いまはない。俺も腹がすいているんだ。見つけたら持ってくるぞ』
『あ、そうでありますか。たのみます』
〈三号病室へ行けば、方向もわかる。炊事場へも行ける〉
軍曹は、足もとに気をつけ、そろり、そろり奥へ進んだ。
ポターン・・・ポターン・・・
静まりかえるやみに、雨だれが、トタンに落ちてひびく。
〈三号病室だな・・・〉
雨だれの音をたよりに進んでいった。つまずいてころんだ。雨だれの音は、あちこちから聞こえてくる。耳をすませばすますほど、どちらからもきこえてくる。どっちへ進めばいいのか、進行方向が、全然わからなくなった。
〈えーいい、どうにでもなれッ!〉
やけくそになって歩く。足にまかせて進む。つまずく。ころぶ。いまきた方向がわからなくなる。突然、無気味な笑い声―『イヒュヒッ、ヒッ、ヒッヒッ・・・』
戦記係から 『七師団戦記・ノモンハンの死闘』の予約出版を受け付け中です。